山崎貴のwiki経歴・学歴!高校卒業後から映画作成していた?監督のきっかけはスターウォーズだった!

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日本を代表する映画監督・VFXディレクター二つの顔を持つ『山崎貴(やまざきたかし)』監督をご存じでしょうか?

2024年3月10日(日本時間11日)に行われた映画の最高峰とも言われる「第96回アカデミー賞」にて

山崎貴監督の作品「ゴジラ-1.0」が視覚効果賞に輝いたことで、世間では大注目されています。

他にも数々の作品を残されている山崎貴監督ですが、一体どんな学歴でどんな経歴を持つ方なのでしょうか?

そこで今回は「山崎貴wiki経歴・学歴」「映画監督を目指したきっかけやエピソード」について詳しく見ていきましょう。

目次

山崎貴のwiki風プロフィール

山崎 貴
from Tokyo, Japan – Yamazaki Takashi from “Godzilla Minus One” at Red Carpet of the Tokyo International Film Festival 2023, CC 表示 2.0, リンクによる

  • 本名:山崎貴(やまざき たかし)
  • 生年月日:1964年6月12日
  • 年齢:59歳(2024年3月現在)
  • 身長:180cm
  • 出身地:長野県松本市
  • 職業:映画監督・VFXディレクター
  • 所属会社:株式会社「白組」
  • ジャンル:実写映画・アニメーション映画・ミュージックビデオ
  • 好きなアーティスト:BUMP OF CHICKEN
  • 好きな映画:「素晴らしき哉、人生!」
  • 感銘を受けた本:アライバル(ショーン・タン)
  • 好きな漫画:ブラックジャック

山崎貴監督は、1964年6月12日に、長野県松本市にて生まれます。

長野県松本市と言えば、日本最古の現存する五重六階の木造天守『松本城』があることでも有名で、

美しい自然と歴史的な建造物があり、観光スポットとしても人気を集めていますよね。

山崎貴監督は13歳の時に『とある作品』に出会い、特撮の仕事に興味を持ち始めたそうです。

高校卒業後から、本格的に映像の勉強を始め、総合映像制作のアルバイトも経験されたそうなんです。

若い頃から努力を重ね、映像の技術を磨き続けていたのでしょう。

そんな山崎貴監督について、ここから更に深掘りしていきます!

山崎貴学歴まとめ!出身校や学生時代のエピソードを調査!

【山崎貴学歴】

  • 中学校:松本市立清水中学校
  • 高校:長野県松本県ヶ丘高等学校
  • 専門学校:阿佐ヶ谷美術専門学校

山崎貴監督は、長野県松本市の出身で、高校生までは地元の学校に通われていたようですね。

その後、山崎貴監督は大学には進学せず、専門学校に進まれ映像の勉強を本格的に取り組まれたようです。

そんな山崎貴監督の学歴について、それぞれ詳しく見ていきましょう!

山崎貴は地元の公立中学校「松本市立清水中学校」の卒業生だった!

山崎貴監督は、長野県松本市公立の中学校『松本市立清水中学校』に通っていたいたことを公表しています。

松本市立清水中学校の特徴は、歴史ある木造校舎で、平成28年に創立70周年を迎えた伝統ある学校です。

当時、山崎貴監督は映画よりも「怪獣」に興味があったようです。

幼少期の頃に拾った雑誌を見て、怪獣の中に人が入っていると知り「怪獣を仕事にする!」と興味を持ち始めたのだとか。

この頃から既に、山崎監督は幼いながらも映画風の映像を撮り始めていたそうです。

  • 名前:松本市立清水中学校
  • 住所:長野県松本市清水2丁目7-12
  • 設立:1947年

山崎貴の出身高校は長野県上位偏差値「長野県松本県ヶ丘高等学校」だった!

山崎貴監督は、長野県松本市にある公立高等学校『長野県松本県ヶ丘高等学校』に通っていたいたことを公表しています。

創立から100年近く歴史ある学校で、卒業生は3万名を数え、日本全国や海外で活躍している人を多く出しています。

長野県松本県ヶ丘高等学校の偏差値は「63~64」と、長野県の中でも上位の偏差値になります。

この当時から本を読むのが好きな山崎貴監督は、学力面でも優秀な生徒だったのではないでしょうか。

2022年1月とある作品にて、山崎貴監督本人が母校の『松本県ヶ丘高等学校』をロケ地にどうかと提案しそうです。

山崎貴監督にとっては高校での生活が、青春の思い出だったのかもしれません。

  • 名前:長野県松本県ヶ丘高等学校
  • 住所:長野県松本市県2丁目1-1
  • 設立:1923年

山崎貴は「阿佐ヶ谷美術専門学校」へ進学し映像の勉強に励んでいた!

山崎貴監督は高校卒業後に、大学には進学せず『阿佐ヶ谷美術専門学校』に通っていたいたことを公表しています。

専門学校への進学をきっかけに、地元の長野県松本市から離れ、東京へ上京してきたようです。

阿佐ヶ谷美術専門学校は、幅広い分野のデザインやメディア向けコンテンツ、アートなどの技術を学べる学校で

デザイナーや映像監督、漫画家などクリエイティブに活躍している方々を輩出しています。

詳しいことは公開されていませんでしたが、山崎貴監督はコンテンツ学科にて、VFXの勉学に励んだのではないかと言われています。

  • 名前:阿佐ヶ谷美術専門学校
  • 住所:東京都杉並区梅里1丁目3-3
  • 設立:1945年

山崎貴が映像制作・監督を志したキッカケはスターウォーズだった?

13歳の頃に観た「スターウォーズ」「未知との遭遇」の影響

上述にもあるように山崎貴監督は、幼少期から映像に興味をもっていたようです。

映像制作を志したキッカケなどを調査してみると

当時13歳だった山崎貴監督は『スターウォーズ』『未知との遭遇』を観て、衝撃を受けた」そうです。

これがきっかけとなり、「映像制作の仕事をすること以外頭にはなかったくらいだ」と語られていました。

高校卒業後からは「VFX」を学ぶことのできる阿佐ヶ谷美術専門学校に進学。

阿佐ヶ谷美術専門学校に在学中は、総合映像制作プロダクションの「株式会社 白組」にてアルバイトをしていたそうです。

アルバイトでは撮影テスト用のミニチュア作りを担当し、専門学校との勉強と両立し、努力を惜しまなかったようです。

このアルバイト経験が、今の仕事につながる訓練になったのだと、山崎貴監督は語られています。

はじめて映画を撮ったのは中学3年生だった?

中学生の文化祭の出し物で、人生初のSF映画を撮影

2022年8月朝日新聞デジタルのインタビュー記事にて、当時の様子を語っていますが

中学3年生だった山崎貴監督は、文化祭の出し物で同級生たちと共に映画の撮影を行ったそうなのです。

山崎貴監督と同級生が、共に撮った作品はなんと「SF映画」だったそうです。

当時通っていた清水中学校の文化祭で上映、そうすると沢山の人が集まり大反響だったそうなのです!

山崎貴監督は当時からこだわりは強かったそうですが、かなりの才能があったことには間違いなさそうですね。

山崎貴の経歴まとめ!嫁との出会いで映画監督を決意!

  • 1986年:株式会社白組に入社(総合映像制作プロダクション)伊丹十三監督作品で「マルサの女2」のSFXや「大病人」デジタル合成を担当
  • 2000年:映画「ジュブナイル」が映画監督としてのデビュー
  • 2002年:リターナー
  • 2005年:ALWAYS 三丁目の夕日
  • 2007年:ALWAYS続・ 三丁目の夕日
  • 2009年:BALLAD名もなき恋のうた
  • 2010年:SPACE BATTLESHIP ヤマト
  • 2011年:friendsもののけ島のナキ
  • 2012年:ALWAYS 三丁目の夕日’64
  • 2014年:STAND BY ME どらえもん
  • 2014年、2015年:寄生獣・寄生獣完結編
  • 2016年:海賊とよばれた男
  • 2017年:DESTINY 鎌倉ものがたり
  • 2019年:アルキメデスの大戦
  • 2019年:ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
  • 2019年:ルパン三世 THE FIRST
  • 2020年:STAND BY ME どらえもん2※八木竜一との共同監督
  • 2022年:GHOSTBOOK おばけずかん
  • 2023年:ゴジラ-1.0

山崎貴監督は、専門学校生の時にアルバイトをしていた「株式会社白組」に、専門学校卒業後そのまま入社しています。

入社後は、映画のSFXやデジタル合成などの作業を主に行っていたそうです。

現在は映画監督として活躍されていますが、

山崎監督が『映画監督になる』と決意したのは『結婚』が関係している事がわかりました。

それでも、予算等の問題から、なかなか監督デビューとはいかず、2000年に映画監督デビューとなります。

その後、数々の素晴らしい作品を作成し、

2005年「ALWAYS 三丁目の夕日」は、第30回報知映画賞で最優作品賞受賞、日本アカデミー賞で監督賞を受賞しています。

山崎貴の嫁は『アンフェア』監督!

山崎貴の嫁は、映画監督の佐藤嗣麻子

山崎貴監督は、2012年に映画監督の「佐藤嗣麻子(さとうしまこ)」監督との結婚を発表しています。

佐藤嗣麻子監督とと言えば『アンフェア』『犬神家の一族』を手がけた名監督として有名ですよね。

お二人は専門学校の同級生でもあり、当時からの付き合いで、入籍前でも夫婦同然の生活を共にしていたんだそうです。

嫁との制作で映画監督を決めた?

妻・佐藤嗣麻子の影響で映画監督になろうと決意

実は山崎監督が映画監督になろうと決意した理由には、妻・佐藤嗣麻子監督が関係しているのだそうです。

山崎監督は結婚する前に、佐藤麻子監督のホラー映画『エコエコアザラク』にてVFXの手伝いをしていたそうです。

一緒に仕事をする中、佐藤麻子監督の姿をみて

『映画を作ることのやりがいや達成感はあるものの、作品作りの過程で非常に苦労がある』と感じたそうです。

この経験から「自分が監督になって、自分のために苦労したほうがいい」と思うようになり

『山崎監督自らが映画監督なる道を決めた』と語られていました。

妻・佐藤嗣麻子監督のVFXの手伝いをしなければ、もしかすると監督の道には進まれていなかった可能性もありますね。

まとめ

ここまで「山崎貴wiki経歴・学歴」「映画監督を目指したきっかけやエピソード」について詳しく見てきました。

日本を代表する映画監督、山崎貴監督について見てきましたがいかがだったでしょうか?

山崎貴監督の作品「ゴジラ-1.0」が視覚効果賞に輝いたことで、世界からも認められる存在になったこと間違いないですね。

進化し続けるVFXによる撮影がどのようなものになるのか、今後も夢のある映画を作り続けて欲しいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました

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